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Sherborne Castle を日本語でご案内いたします。2002年10月21日

Sherborneの街を訪れることがありましたら、そしてお城に立ち寄る計画がありましたら、この日本語をプリントアウトしてお持ちくださいね。
英語がご堪能な方は必要ないかもしれませんが!Petite ママより

Sherborne Castle当主の歴史

サリスベリー地方の司教であるロジャーによって、ここシャーボーンに城が建立されたのは、およそ1122年から1139年の間のことでした。美しい自然に囲まれたこの城は、鹿が生息する自然公園に繋がっており、この公園の中にチューダ王朝初期の頃、鹿狩り見学のためのハンティング・ロッジと呼ばれる小規模な建物が、この司教により建造されました。
1592年、ウォルター・ローリー卿は、城とその土地を当時の司教より買い取り、城を彼の住居とするための修復工事の計画を立てましたが、その費用があまりにもかさむので、その計画を諦め、1594年に、鹿の自然公園内にあったハンティング・ロッジの跡地にその土台を基盤にして、新しい邸宅を建設しました。修理を諦めた古い城(オールド・キャッスル)と区別するために、ローリー卿はこの新しい住居を”シャーボーン・ロッジと名づけました。
このチュダー王朝様式の四階建ての邸宅の特徴は、建物の四隅にかたどられた六角形の塔や、大きな四角い窓などがあげられます。この大窓には、ウォルター・ローリー卿の頭文字、家紋、そして1594年の年号が刻まれたステンドグラスがはめ込まれており、それらは、つい19世紀まで、このチュダー王朝様式の建物内に残されていたと言われます。ローリー卿は、エリザベス1世に重用され、彼の絶頂期には、女王の護衛隊長を務めました。しかし、エリザベス1世の後に即位されたジェームズ1世国王により、君主、国家に対する反逆罪に問われ、ロンドン塔に13年間幽閉され、亡くなりました。卿の死後、彼の所有財産は土地を含め、全て国家に没収されました。

1617年になって、ジェームズ1世は、当時外交官として活躍していたジョン・ディグビー卿(後の1代目ブリストル伯爵)にシャーボーン・キャッスルを買い取る許可を与えました。ディグビー卿は1630年代に、建物の主要部分の側面に四棟の住居部分を増築しました。ローリー卿が好まれたスタイルを模倣することにより、建物全体の雰囲気を壊すことなく、また増築部分がオリジナルと一体となるよう努力が払われていると評価されています。清教徒革命の間、ディグビー家は王党派を支持し、そのためにオールド・キャッスルは要塞として使われ、守備隊をおきながらも二度の包囲攻撃を受け、痛手を負いました。1645年、オールド・キャッスルは議会派の軍隊により、無残にも廃墟と化し、これ以後”シャーボーン・ロッジ”と呼ばれていた新しい建物を”シャーボーン・キャッスル”と呼ぶようになりました。清教徒革命後、ディグビー家は海外に亡命し、再び当主を失ったシャーボーン・キャッスルは議会派により没収されました。やがて1660年に王政復古が現実し、時の2代目ブリストル伯、ジョージ・ディグビーにシャーボーン・キャッスルはは戻されました。ジョージの息子である3代目、ブリストル伯、ジョン・ディグビーは1688年11月に、オレンジ公が国王ウィリアム王子を3日間、このシャーボーン・キャッスルで接待しました。これはオレンジ公が国王ウィリアム3世として即位するため、ロンドンでの戴冠式に向かう旅のの途中、その準備を兼ねてこの城に立ち寄ったため、と言われています。

その3代目ブリストル伯は、1698年に相続人がいないままこの世を去り、土地と財産は、彼の従弟にあたるウィイアムにより相続されました。ウィリアム、5代目ディグビー卿は、慈愛に満ちた慈善活動かとして知られ、人々に”グッド・ロード・ディグビー(神のようなディグビー卿)”と呼ばれ、親しみと尊敬をもって愛された存在だったと言われています。かれは教育にも熱意を示し、所有地の一部を寄贈して、シャーボーンにロード・ディグビー・スクールという学校を設立しました。ウィリアムは長寿に恵まれ、92歳まで長生きしました。1752年に彼の孫であるエドワードが6代目としてディグビー家の家長となりました。エドワードは、シャーボン・キャッスルを現代的な住居に改善する計画を立て、旧式の窓にサッシと呼ばれる上げ下げ式窓を取り付け、パネルのついた扉や、室内には上質な装飾家具を取り揃えました。しかし、エドワードは27歳の若さにして突然、1757年に逝去し、彼の弟であるヘンリーが7代目を相続しました。時の英国ジョージ3世は、1789年8月にシャーボーン・キャッスルを訪れ、その翌年にはヘンリーに、ディグビー伯爵の位を授与された。その後、ヘンリーの息子エドワードによって、ディグビー伯爵の2代目が相続されましたが、1856年になり、エドワード後継者のいまいまま逝去したため、シャーボン・キャッスルは、エドワードの甥にあたるジョージ・ウィングフィールド・ディグビーによって相続されることになりました。このジョージ・ウゥングフィールド・ディグビーも、シャーボーン・キャッスルの現代化と改善に力を入れ、例えば、ウォルター・ローリー卿が生前に接客室として使っていたグレート・パーラーを、ソーラーリウム(日光浴室、またはサンルーム)に改造したり、エレガントな姿を今もそのまま保存しているグリーンルームの豪華な家具調度品も、彼によって集められたといわれています。時世はは移り、第一次世界大戦中には、FJBウィングフィールド・ディグビーは国家の大事に応えるため、彼自身でドーセット・ヨーマンリーの軍を統合し、ガリポリやエジプトで実戦に参加した武勇伝が記されています。その間、彼の妻はシャーボーン・キャッスルを戦いで負傷した兵士達のために開放し、赤十字病院を自ら運営しながら家を守ったという内助功が知られています。これも、この家族の長い歴史の中に光る一つのエピソードと言えるのではないでしょうか。その後の第二次世界大戦には、D−ディー上陸作戦(連合軍ノーマンディー上陸作戦)のために特殊訓練を受た奇撃隊員の本営として、シャーボーン・キャッスルは再び国家の大事のために重要な役割を果すことになりました。当主であるJFBウィングフィールド・ディグビーは、その間シャーボーン・キャッスルを本営に明け渡しました。彼は第一次世界大戦で負傷していたので、今回直接参戦する機会は逃したものの、すでに陸軍大佐であった彼の軍人としての魂は生き続け、シャーボーン地域内の国防市民軍兵の組織に加わり、国内にて彼の責務を果したと言われています。

1952年になり、サイモン・ウイングフィールド・ディグビーが、彼の父の跡を継ぎ、シャーボーン・キャッスルの当主となりました。彼は、1941年から1974年にかけて西ドーセット地方選出の下院議員であり、ウィンストン・チャーチル首相の内閣では海軍本部の民間提督を1951年から1957年の間務めました。彼は先祖代々愛されてきたこの城とその広大な地所を一般公開する決断を下しました。1998年に他界するまでサイモンはシャーボーン・キャッスルの改善と修復に力を注いだと言われています。サイモン・ウィングフィールド・ディグビーの後は、彼の息子ジョンにより相続され、シャーボーン・キャッスルと彼のファミリーの歴史は絶えることなく、今に続いています。

Entrance Turret (玄関)
このシャーボーン・キャッスルには、城の南東に位置する小塔より入場します。壁はオーク材(OAK:ナラ、カシ等のブナ科ナラ属の総称。賢質)のパネルが使用されています。
絵は”未亡人となたスウェーデン女王”(1639-1715)

Library(図書館)
この室は、図書館として使われており、1630年にジョン・ディグビー卿により増築された四棟の建物の一つに所在しています。室内は1758年に、6代目ディグビー卿、エドワードにより再び改築され、ストロベリー・ヒル・ゴシックと呼ばれるスタイルに統一されています。美しく均整の取れた白い本棚は、ウィリアム・ライドという大工の棟梁の手により作られ、彼の技術の高さが伺われます。その本棚に置かれている青銅塗りの石膏像は、古典派の哲学者達の胸像で、ヘンリー・チアーの作と言われています。この図書館には16世紀から19世紀にかけての書物が収められており、その内容は言語のみならず、広範囲に渡り、ディグビー家の世代を通じて引き継がれていった知識や、趣味、興味等の流れを物語っています。

調度品としては、ジョージ王朝様式(1714-1890)とリージェンシー、摂生期様式(1811-1820)の家具が置かれています。その中で特に興味をひくのは、マホガニー材の三脚台付きのつい立てでしょうか。これは、ジョージ2世王の頃に貴婦人達の化粧法として好まれたワックス材の顔料が、暖炉の熱によって溶けてしまう事から守るために使われたものです。また、暖炉の上には、ケネルム・ディグビー卿の肖像画が見られ、これは数多くのヴァン・ダイクの作品のうちのひとつです。ケネルム・ディグビー卿は、このシャーボ^ン地方のディグビー家の徒弟にあたり、哲学者、科学者、そして探検家として広く知られた人物といわれています。

The Solarium(ソーラリウム)
この部屋は、ウォルター・ローリー卿の接客室として使われ、以前はグレート・パーラーと呼ばれていましたが、今はソーラリウムと呼ばれています。天上の石膏細工には、チュダー・ローズがバランスよく配置され、どんぐりとオークの木の葉が、装飾的にその間を埋めています。暖炉の向かいがわの壁には、1750年頃の城とその庭園が描かれた小さな絵が掛けられ、当時の様子を物語っています。その絵の中の庭園は、フォーマル式と呼ばれる塀によって囲まれた幾何学式庭園で、この部屋の窓から眺められたと言われています。

1859年に当主であるジョージ・ウィングfヒールド・ディグビーにより改造されました。部屋の壁には、オーストラリア産のオーク材でパネルが取り付けられ、暖炉には大理石のマントル・ピースが装着されました。マントル・ピースに刻まれているのは、ディグビー家の家紋”DEO,NON、FORTUNA(By God, not by good fortune:神のみにより、幸運によらず)”です。
時計はシャーボーン大寺院がかたどられ、1890年にJKDウィングフィールド・ディグビーの結婚のお祝いとして贈られました。その脇には、黒檀材に白めの寄木細工をあしらったマザラン・スタイルの書き物机が置かれています。テーブルはジョージ4世期の作品で、大理石の標本の様にフローレンス産のピエトゥラ・ドゥラをふんだんに使った表面は、大変興味深い芸術品でしょう。

壁に掛けられているのは、ウィングフィルド家の人たちの肖像画です。1856年にこのシャーボーン・キャッスルを相続したジョージ・いィングフィールド・ディグビーと彼の愛馬”フォレスター”の大きな絵が見られます。

The Red Drawing Room(赤の部屋)
17世紀に石膏で作られた天上は、百合の紋章、薔薇の花、グリフィン(ギリシャ神話に出てくる怪獣)、イルカ、小枝の花、そしてディグビー・オーストリッチと呼ばれる奇妙な鳥などが、バランスよく配置されています。ちなみにこのディグビー・オーストリッチとは、少なくても600年以上もこのディグビー家の紋章として一家を象徴してきました。世代が移っても、いつも一家のマスコットとして愛され、邸内のそこここに登場しています。室内の暖炉は1630年の増築の際に、ジョン・ディグビー卿が装飾したといわれます。

窓と窓の間には、一対の大鏡が掛けられ、これは18世紀にピエール・ラングロアにより誂えました。鏡が置かれている大理石のテーブル台には、ディグビー・オーストリッチが使われています。また、鏡の縁取りにも、ディグビー・オーストリッチがあしらわれ、上部のディグビー伯爵の王冠を支えているようにも見えます。真珠貝のはめ込まれた美しい小キャビネットは日本製です。
象牙細工のほどこされたもうひとつのキャビネットは18世紀の作品と言われています。

この部屋に掛けられた絵は、ディグビー家の家族とその親類達です。これらの絵から一家の縁故関係が、サウスハンプトン侯とゲインズボロウ候のそれぞれの家族との婚姻により広がっていったファミリー・ツリーを物語っています。その中にはケネルム・ディグビー卿と彼の妻ヴァニシア、そして彼の2人の息子たちの大版の肖像画などがあります。特に目をひくのはやはり、”エリザベスT世の行列”でしょう。この作品はチュダー期を代表する絵画の一枚として有名であり、ディグビーかにより過去3世紀以上の間所有されました。現在では英国の歴史書のほとんどにこの絵が登場し、英国内のみならずアメリカにまで広くその複製版が普及しています。

Red Drawing Room Turret(赤の部屋・チュレット(角の小塔))
絵画:”コテンハム卿”ウィングフィールド・ディグビーの娘、キャロラインの夫
        ”レディー・クリスティアン・フォックス・”ディグビー家の祖母として愛された女性
        ”イタリア様式の風景画”クロード・ロラン作 原画は仏ルーブル美術館

The Sporting Room(スポーティング・ルーム)
故ジョージ・ウィングフィールド・ディグビーは、1856年にブラック・ヴェイル地方での狩猟を復活させ、その猟にまつわる”よき時代”の思い出の品がここに展示されています。サイモン・ウィングフィールド・ディグビー氏の競走馬勝利の記念写真などが飾られています。

The Porcelain Room(ポーセリング・ルーム)
この部屋には、陶器のコレクションが陳列されています。メアリー2世女王は日本の陶芸家、柿右衛門の作品を特に好まれ、その繊細さと鮮やかな色合いを愛されたと言われています。女王の陶器に対する情熱は、200年後ジョージ・ウィングフィールド・ディグビー夫妻に受け継がれました。夫妻の広範囲に渡る美しい陶器コレクションは、どれも、その国、時代、作者を代表する逸品の数々が集められここに飾られています。中国のコレクションは15世紀の作品みまで遡ると言われており、特筆にあたる作品としては、明代から清代への過渡期に創作された数点の作品でしょう。

The Green Drawing Room(緑の部屋)
ウォルター・ローリー卿が当主であった頃、この部屋は!グレート・チェンバー”と呼ばれ、邸内での主要室として家の中心でした。1765年にそれまで使われていた鉛の枠付きガラス窓は、サッシ窓に取り替えられ、また塀で囲まれていたフォーマル式庭園は、現在の芝生を用いたデザインに変わり、”イースト。ローン”と呼ばれるようになりました。

室内の天上は、石膏細工で飾られています。模様は、ウォルター・ローリー卿の家紋と5つのひし形の紋章図形が施された楯です。暖炉の上には、でぃぐビー家の紋章とともに、ブリストル侯爵のモットーが掲げられ、これは17世紀頃、両家の間におこったシャーボーン・キャッスル相続権をめぐる争いを物語っていると言われています。

ゆるやかな曲線のソファー一対は、ハンプアッグ・ソファーと呼ばれ、またユリノキ(モクレン科の高木)材とシタン材で造られたコモード(背の低い引き出しつきの整理ダンス)は、ジョージ3世朝の頃に、ピエール・ランロアにより創作されたといわれています。他にも、室内にはリージェンシー様式の文机や、繊細なはめ込み細工のほどこされたクルミ材の公文書送達箱などが置かれています。ちなみにこの公文書送達箱(”デスパッチ・ボックス”と呼ぶ)は1612年に、1代目ブリストル侯爵がチャールズ1世王と、スペイン王女との結婚計画に関する事項を記述した書類をこの中に納めたと信じられています。

窓を縁取る優雅なカーテンと壁紙は、1859年に作られたオリジナルです。ヴィクトリア時代から今日までの長い年月を経てきた材質は希少であり、またもろさの伺われるところ等、その妙味は歴史のみが生み出すものでしょう。職人自らの手により図案を打ち出したと言われる壁紙とパピエ・マシェ(混凝視)材の縁取りは、室内のインテリアの統一性をうまく表現していると言われています。

室内の壁には、ディグビー・ウィングフィールド両家の家族や親類の肖像画をはじめとして、サウスハンプトン伯、フォックス家の人々や、イルチェスター家の人々の姿が描かれた絵が掛けられています。その中には、チャールズ2世の恋人であった、ルイーズ・ドゥ・ケロアイユ、ポーツマス伯爵夫人の等身大肖像画が一枚含まれています。

Tne Blue Drawing Room(青い部屋)
この部屋はヴィクトリア女王の時代に改装されています。壁にはパネルが取り付けられ、その内に薄青の壁紙、その縁と外には白と金の縁取りが選ばれているのは、室内の陶器と日本製の漆材の家具を引き立たせるためと言われており、当時の人の考える東洋的雰囲気を知ることができます。特筆すべき家具としては、メイヒュウ&インス作と言われるジョージ2世様式で、マホガニー材を使用しているコモード整理ダンス1対、フランスのルイ13世朝のコーナー机1対、へプル・ホワイト作と言われる棒月つい立2脚、窓と窓の間の壁に置く机1対と、揃いの机1式などでしょう。この揃いの机には棚がついており、また表面には大理石の中に化石が技巧的に組み込まれています。

この部屋は特に東洋的雰囲気の濃い装飾品が多く置かれています。中でも18世紀の中国製コロマンデル式漆材の使用されているキャビネットや、日本の漆を使った工芸品、ミニチュアなどがいろどりをそえています。

等身大の二人の男性を描いた肖像画はナプトン作で、ヴァン・ダイク流の技法が用いられています。ここに登場している2人の男性は、ディグビー卿と彼の義理の弟ラッセルです。この2人は清教徒革命中に王党派と議会派に分かれて戦ったと言われています。もう一枚の肖像画は、ゲインズボロー作で7代目ヘンリー・ディグビー伯爵の姿です。

The Boudoir(ブドワール)
このブドワールと呼ばれる私室は、邸宅をかたどる六角形の小塔のひとつに位置しています。この小さな部屋の天井には、ホップと花がかたどられ、1630年代に、当時の当主であったジョン・ディグビー卿により城の拡張工事が施工された時のオリジナルのデザインで1970年の補修工事を経て、現在保存されています。背の高いルイ14世朝風の、ディスプレイ・キャビネットは、コクタン材製で、コロマンデル式の赤うるしと、真鍮で、精密な模様に縁取られ、チェルシーのレッド・アンカーと呼ばれる種の陶器が展示されています。台の上に置かれたコクタン材のキャビネットには、銀のパネル内にディグビー家の紋章が、装飾として使われています。5代目のウィリアム・ディグビー卿と彼の家族の肖像画には、オールド・キャッスルの城跡がその背景に描かれています。

Lady Bristol's Bedroom(レディー・ブリストルの寝室)
この部屋は、ウォルター・ローリー卿夫婦の寝室でした。天井の石膏細工は鹿がかたどられ、これはウォルター卿の考案によるものと言われています。

室内の四本柱の囲み式寝台は、ジョージ3世朝スタイルで、インズ&メイヒュー作と言われています。寝具は絹ドンスのダマスク織の布が使用されています。壁に飾られたタペストリーは、ソーホーのジョショア・モリスにより織られた作品と言われ、そのデザインの考案者は1716年から1756年までイギリスでなの知られた仏人アンドリアン・ドゥー・クラーモンと言われています。

絵画は5代目ウィリアム・ディグビー卿(1660-1752)の肖像画

この部屋を出て通路には、17世紀と18世紀の陶器のコレクションが、ケースに収められています。

The Main Staircase(主要階段)
ウォルター・ローリー卿の邸宅だった頃、この階段は家の主要部分を占める位置に建てられ、邸内の最上階を通り抜け、屋上にまで続いていたと言われています。現存する階段は、ディグビー家により、新たに1775年に取り付けられ、その工事には、この地方から大工職人が雇われました。1階には、ジョージ2世朝の大理石のテーブルが、金で塗られた木製の鷲の台の上に置かれています。また、おどり場には、レスリングをする男性像や、刀を研ぐ人の姿が、見事に表現された大理石の置物の数点が展示されています。

絵はディグビー家の家族の肖像画や、ロイヤル・コレクションの中でも特に有名なチャールズ1世の子どもたちの絵(複製)が掛けられています。

The Hall(ホール)
ウォルター・ローリー卿の頃には、この部屋の南西に位置する小塔が玄関として使われていました。その後、ディグビー家により両開きの扉が南側の位置に中庭に向けて開くように取り付けました。暖炉は一時閉鎖なれていたものを、1930年に修復工事が施工された際に、原型に使用されていたチューダー期の石とその構造を再現して、使用可能の状態に戻されました。この窓の原型は、典型的なチューダー期のスタイルで、扉はその時期以降の追加と言われています。

室内の中央には、ジャコビアン朝(ジェームズ1世統括期)の食堂机が置かれ、17世紀初頭の作と言われている椅子や、スチュワート朝後期の椅子などが揃えられています。木枠のガラスケースの中には、15世紀のヘルメットが納められています。これは当時、騎士達の間で行なわれた馬上のやりつき試合で、防具として使用され、サイモン・ディグビー卿所有のヘルメットと信じられています。彼は、1485年ボスワールの合戦で、ヘンリー・チュダー側につき戦い、彼の柩が安置されているウォーイック地方のコールズヒル教会内の彼の柩の上に掛けられていたのを、彼のルーツであるこのシャーボーン・キャッスルに戻したという逸話があります。現在、残存する英国中世紀の甲羅類の中でも特に高品質で、保存状態の良いひとつの芸術品として高く評価されています。

壁を飾る等身大の肖像画は、帝政ロシアの始祖ピョートル大帝を描いた作品と、俳優のトーマス・ドゲットの姿です。他には、現代画家ジョン・ワード・R・Aによるサイモン・ウィングフィールド・ディグビー氏(1910年ー1998)の肖像画や、ウォルター・ローリー卿がジェームズ1世の命により、1603年から1616年までロンドン塔で幽閉生活を送った間に描かれたローリー卿の小さな肖像画が掲げられています。

The White Landing(ホワイト・ランディング)
1789年に、城の西側に客室とオフィースのための設備を追加する増築工事が施工されました。ローリー卿時代の原型をなるべく残すよう計画が立てられ、オリジナルの外壁とガラス窓を邸内に残しました。絵は、ボーブランによるルイ13世仏王の等身大の肖像画と、フェンシングの装備に身を包んだジョージ・ウイングフィールド・ディグビー夫人のモダンな肖像画が掛けられています。

The Small Dining Room(小食堂)
ウォルター・ローリー卿がここを住居としていた頃、この部屋は地上階で一番小さな部屋でした。赤い鼈甲で細工された鏡は、17世紀後半のフランダース製です。

絵画は、チャールズ二世英国王、オレンジ大公等の肖像画が飾られています。暖炉の上の一枚の肖像画には、その人物の正体について、いろいろな説があります。チャールズ1世の姉妹のひとりで、”冬の女王”と呼ばれた女性、またはアカベラ・スチュワート女史、もしくは現在もっとも有力とされる説として、実はケネルム・ディグビー卿の妻、ヴァニシア(c1610)の娘の頃の肖像画であろうとされています。

キャビネットの中には、ディグビー家の人々をモデルとしたミニチュアの肖像画のコレクションが展示されています。それらは、美術工芸品として大変価値の高い作品です。

The Oak Room(オーク・ルーム)
オーク・ルームは、1630年にジョン・ディグビー卿により増築された建物の一部で、オーク材のパネル壁と暖炉が当時の姿をとどめています。室内の両角にある一対のポーチもその時に付け加えられたと言われています。この一対のポーチは、当初、隙間風を防ぐために建てられました。普通、室内に一対の同じ形のポーチが建てられるのは、まれなアイデアとされています。部屋の中央を占める食堂机の長さは、約24フィート(約7m32cm)で、ニレ材で作られています。

暖炉の上に、堂々と広げられた大きな鹿の角は、アイルランドにあるディグビー家の所有地内の沼地から発掘された先史時代のものであるといわれています。その暖炉の炉床に敷かれた石には、大きなひびが割れています。1688年11月に、ウィリアム王子オレンジ大公が、このシャーボーン・キャッスルに滞在された際、ご自分の国王即位のための用意として宣言書の小冊子を印刷されました。その印刷に使われた機械の重さが、このひびの原因と言われています。また、暖炉の中には、精巧に作られた鋳鉄ジャッキが置かれています。百合の紋章がほどこされ、頑丈な姿が目をひくことでしょう。

小塔のある位置には、18世紀頃の作といわれる時計があります。これは、”アクト・オブ・パーラーメント時計”といわれ、その名前の由来は、当時時計は税の対象となっていましたが、この時計はその大きさのために税金を免除されたという逸話があるからなのです。ガラスのキャビネットの中には、銀メッキのディグビー・オーストリッチが展示されています。その本体は、ダチョウの卵より作られています。一緒に展示されているには、金と白の地にディグビー・オーストリッチの紋章が描かれたブレックファースト・セットです。

Releigh's Kitchen & Cellars(ローリー卿の厨房と地下室)
現在、この部分の建物は博物館として使用されています。以前はエリザベス朝の様式の典型的な厨房の一部でした。大きな暖炉とオーブンがその原型の雰囲気をとどめています。左側には製パン所があり、ここは小塔の地下室にあたる部分です。ガラスの陳列ケースには、オールド・キャッスル跡から発掘された品々が陳列されています。その後方には現在はふさがれていますが、3つの明かり取り様の窓があります。これはこの城のはじめの城主であった、サリスベリー地方の司教が、ハンティング・ロッジとしてこの部分の建物を使っていた1500年頃に作られたと言われています。その後、ローリー卿が1594年にこのロッジを自分の新しい住居の一部として取り入れ、現在まで保存されています。

レンガ材のアーチ型天井は、ぶどう酒を貯蔵するセーラーに作られました。ここには、彫刻のほどこされた石細工の陳列品が並べられています。それらの見事な石細工は、今は城跡のみになってしまったオールド・キャッスルから採集され、その中には1130年頃の石細工が見られ、当時の石細工の技術の高さが伺われます。右手にある扉のガラス窓から、地下に続くトンネルのような通路が見えます。この通路は、住居部分と中庭の下を通っており、従業員たちによって使われました。地下室は、また、醸造所として使われ、一家が必要とするビールなどの飲み物はここで賄われていました。そのビール樽を転がして、搬入搬出するために、この辺りの石作りの通路の出入り口は、人の腰のあたりの高さから下に向かって、中が広めに作られているのに気が付かれることでしょう。この醸造所は、今は1730年頃にゲェンダレン・ウィングフィールド・ディグビー夫人によって集められた骨董品のコレクションが展示されています。

Castle Yard(キャッスル・ヤード)
地下の通路を抜け、ギフト・ショップを最後に、シャーボーン・キャッスル邸内の見学ツアーは終わり、ここはキャッスル・ヤードと呼ばれる城の中庭です。この庭は1778年、造園師”ケイパビリティー・ブラウンにより設計、改造されています。石畳の敷き詰められた庭内の中央には船の形の花壇があります。これは海軍大将であった、ロバート・ディグビー(7代目ディグビー卿の弟)の提案のよるものと言われています。右手にある建物は、このシャーボーン・キャッスルを訪れる人々のための休息所として使われているティールームです。もとは1772年に一家の子どもたちの遊戯屋として、本邸から独立した場所に建設されました。このティールームに続いている部屋は、”デイリー”と呼ばれ、乳製品を取り扱う場所です。1756年にジョージ風のゴシック・スタイルで建てられました。床のタイルは1834年にシャーボーン近郊で発掘された紀元前4世紀頃のローマ時代のモザイク・タイルで、1836年にここの場所の床に移されました。(人物はアポロとマルシャス)

船の形の花壇の向こうには、れんがで作られた、氷貯蔵室があります。これは”アイスハウス”と呼ばれ、その昔、冬の間に湖から採取した氷を夏の間に使用するために、温度の低い地下に保存する場所でした。

ティールームの向かいには、緑の芝生をはさんで、1781年に建設された、”オレンジェリー”と呼ばれる温室が見えます。

The Grounds(庭園)
ウォルター・ローリー卿は、オールド・キャッスルと彼の新しい住居となったロッジの間に入念なプランに基づいた、精巧な庭園を建造しました。しかしながら、現存しているのは彼の”シード”と呼ばれる彼専用の場所だけで、卿はそこからの眺めを特に楽しんだと言われています。18世紀初頭にロバート・ディグビーは、運河、芝生で作られたボーリング用グリーン、雛壇式の庭、果樹園、小さな林や森などの変化を織り込んだフォーマル式庭園を建造しました。ロバート・ディグビーの友人で、詩人アレクサンダー・ポープは、1724年にここを訪問した際に、庭園の様子を書き示し、その中で詩人は、ロバート・ディグビーの庭に対する情熱と努力を賞賛したと言われています。

1757年に造園技術者ランセロット’ケイパビリティー・ブラウン’は、庭内に湖を創作するために雇用されました。この湖建設計画により、それまでのフォーマル式庭園は一蹴され、自然なパーク式庭園に生まれ変わりました。この湖は完成までおよそ2年を費やし、完成後にはこの頃最もファッショナブルで、最新式の造園技術が施された庭園として話題を集めました。オールド・キャッスルの城跡は、この湖の背景に位置しています。庭園によりロマンチックな雰囲気を与えるために、城壁にはつたが植えられ、朽ちた感じの搭や、銃眼を付けた古壁が加えられました。特別なアルコーブ・シートは、1780年にブラウンにより創作された滝の脇に設けられ、一家の友人である詩人アレクサンダー・ポープにちなんで”ポープのシート”と名づけられました。

伝説によると湖のそばに植えられた巨大な樅ノ木は、ウォルター・ローリー卿が新世界の旅から持ち帰った種を、その場所に植え、このように巨木に成長したと言い伝えられています。しかし実際には、暴風雨の際に一本の巨木樅ノ木が倒され、その年輪から、樹齢250年と計算され、また古文書保管所の記録には、1769年に20本の樅ノ木をドーチェスターの庭園植物専門店から購入したという事実が記されています。厩舎は、もとは東のイースト・ローンの端に建てられました。その後取り壊され、1759年に、この地方の建築家ベンジャミン・バスタードによってデザインされた厩舎が、今も現存しています。城の東に位置していたフォーマル式庭園が1765年に一蹴され、現在のイースト・ローンには、隠れ垣がその周りに植え込まれ、美しい庭園はその先の鹿自然公園へと広がっています。

現代になって、1856年に”ニュー・ロード”と呼ばれる道が通り、初めてロッジに門と門番小屋が建てられました。同時に厩舎も増築されました。第二次世界大戦中には、庭園は一部掘り起こされ、食用作物栽培のための農園として活用され、現在もその時の習慣は引き継がれています。1979年代になり、湖の浚渫(しゅんせつ)作業が施行されたのをはじめ、鹿自然公園や庭園の建物などの補修管理の工事作業が、いつも継続的に計画、施行されています。それはこの美しい庭園自体が多くの歴史を語る歴史的遺産として、シャーボーン・キャッスルを未来へとつなぐ大きな役割を果しているからと言えるでしょう。